李祖娥

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李 祖娥(り そが、生没年不詳)は、中国南北朝時代の絶世の美女。北斉文宣帝高洋の皇后となったが、たびたび他の男性から強姦され、最終的には妊娠した。侍女として李昌儀が知られる。

生涯[編集]

暴君の皇后となる[編集]

李希宗崔幼妃のあいだの次女として生を受けた。趙郡李氏は当時の名門大貴族だった。祖娥は素晴らしい美女であったという。北魏の権力者の一族、高洋の妻となり、子を2人産んだ。このころ、高洋の兄の高澄はしばしば美貌の祖娥を犯していたらしい。

高洋(文宣帝)が北斉を建国すると、その正妻として李祖娥が皇后となった。ところが、文宣帝は、既婚者だった姉の李祖猗にまで手をつけようとした。李祖猗も妹同様の美貌であり、文宣帝はついに彼女を無理やり犯してしまった。そのうえ、彼女の夫を殺してしまう。

こうして祖猗・祖娥姉妹は、同じ男に性的に奉仕することとなった。祖娥は姉に対する強姦を悲しみ、文宣帝に慈悲を乞い、その結果、祖猗は解放された。

この頃、文宣帝は「我が兄の高澄は私の妻を強姦した。これから復讐するのだ」と言い放ち、高澄の正妻だった文襄敬皇后元氏を群臣の前で凌辱した。また、美貌で知られた前王朝の皇女、安徳公主も部下たちに命じて輪姦させた。

義弟に強姦される[編集]

559年10月、文宣帝が崩御した。祖娥が産んだ子の高殷が即位したが、権力闘争のあげく、彼は殺されてしまう。その後、文宣帝の弟の武成帝が即位した。

武成帝は、彼女の子を人質として祖娥を強姦した。祖娥はやむなく彼の凌辱をうけるままとなった。彼女はその後も、義弟の慰み者とされ、このことは広く知れ渡った。やがて彼女は妊娠したが、そのことを恥じて、生まれてきた女児を殺してしまった。

武成帝は激怒し、彼女の子を殺した。そして彼女を鞭打って、全裸で川に投げ込んだ。彼女は一命をとりとめ、尼となった。北斉北周により滅亡すると敵国に連行された。

伝記資料[編集]

関連項目[編集]