日産リバイバルプラン

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日産リバイバルプラン(にっさんリバイバルプラン、英語: Nissan Revival Plan)は、1999年10月18日日産自動車カルロス・ゴーン 最高執行責任者(COO)(当時)が発表した日産自動作の再建計画である[1]

前史[編集]

1999年3月27日、日産自動車はルノーとの提携を発表し、5月27日ルノーの資本受け入れが完了した。同年6月25日に日産自動車の新取締役を選出し、同日CEO(塙義一)、COO(カルロス・ゴーン)、EVP(6名)、SVP(20名)を任命した[2]7月1日から新組織が始動し、9月1日に17名のルノーの管理職が日産自動車に着任した。10月18日に日産リバイバルプランを発表した。

日産自動車の診断[編集]

  • 日産自動車のグローバルシェアは1991年の6.6%をピークとして下がり続け、1997年には5.2%、1998年には4.9%と、年間0.3の低下を続けている。
  • グローバル生産台数は1991年の308万台をピークにして下がり続け、1998年には246満台と645000台の減少となっている。
  • 国内シェア(全体シェア)は1989年の18.6%をピークに下がり続け1999年には13.3%となった。
  • 当期利益は1988年、1989年には2%の黒字であったが、1992年から1998年にかけて黒字となったのは1期だけであった。
  • 有利子負債(販売金融を除く)は1989年の1.2兆円から増え続け、1998年には約2兆円となっている。

業績不振の原因は次の5項目に集約された。

  • 1:利益追求の不徹底
  • 2:顧客志向性の不足
  • 3:機能・地域・職位横断型業務の不足
  • 4:危機意識の欠如
  • 5:共有ビジョンや共通の長期計画の不足

日産リバイバルプランの概要[編集]

日産社内の若手・中堅幹部を中心とした組織、9つのクロスファンクショナルチーム(CFT)を発足して、計画をまとめた。1999年7月5日のエクゼクティブ・コミッティで決定した。

3つの目標を掲げた。

  • 1. 利益ある成長
  • 2. 3年間で20%のコスト削減
  • 3. 最適生産効率/最適コストの達成

利益ある成長の実現方法として、新商品の投入、ブランドアイデンティティの確立と強化、リードタイムの短縮、ルノーとの提携を掲げた。3年間で20%のコスト削減は1年目8%、2年目7%、3年目6.5%として、累計20%である。部品・素材の集中購買化、サプライヤ数の50%削減を掲げた。また自動車に関して使用削減と標準化への挑戦を図る。最適生産効率/最適コストの達成には、車両組み立て・ユニット生産能力の適正化を図る。稼働率として1999年の53%を2002年に77%に高める。 7工場・24プラットフォームを2002年に4工場15プラットフォームとし、2003年に4工場12プラットフォームとする。 工場は2001年3月に村山工場、日産車体京都工場、愛知機械港工場を閉鎖する。 ユニット工場は2002年3月に久里浜工場、九州ユニット工場を閉鎖する。 販売網のスリム化を図り、営業所数の10%削減、子会社ディーラー数の20%削減、北米リージョナル組織のスリム化、欧米ディーラー網の再編を行う。子会社・関連会社1400社のうち、基幹部分として残す4社を除く全ての会社の保有株式を売却する。これによって下請企業の合併再編を進めた。 従業員数の14%削減(グローバルレベルで21000人)を図る。

コスト削減が中心となるが、それだけでは不十分であり、新商品の開発に重点的な投資が必要であるとした。目的は会社を発展させる事であり、縮小する事ではないと強調した。

3つの達成目標を掲げ、公約とした。1つでも未達成の場合は「経営陣全員が辞任する」と、語った。

  • 2000年度の連結当期利益の黒字化
  • 2002年度連結売上高営業利益を率4.5%以上とする。
  • 2002年度末までに自動車事業の連結有利子負債を7000億円以下に削減する。

結果[編集]

連結当期利益の黒字化は、わずか1年目で達成され、税引後純利益は3,311億円ととなった。2001年度には、過去最高の3,7233億円の税引後純利益を達成した。 連結売上高営業利益率は、初年度にすでに4.755%を達成し2001年度末には過去最高の7.9%となった。 自動車事業の連結実質有利子負債は、2001年度末には過去244年間で最低となる4,317億 円まで削減された。

参考文献[編集]

  1. 日産リバイバルプラン日産自動車,1999年10月18日
  2. 日産自動車、新役員体制を発表日産自動車,1999年4月28日