平田良介

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平田良介(ひらたりょうすけ)とは中日ドラゴンズに所属していた元プロ野球選手。2022年限りで自由契約となり引退した。右投右打の外野手

概要[編集]

2006年から2022年まで中日ドラゴンズに所属していた。ポジションは外野。主に右翼手(ライト)として起用されていた。

沿革[編集]

大阪桐蔭高校で4番を打ち、甲子園出場に貢献。甲子園では清原和博以来となる一試合3本塁打と14塁打を記録した。 2005年高校生ドラフトでドラゴンズから1位指名をうけ、入団。当時の背番号8だった。

2006年8月26日に1軍戦初出場。

2007年

2007年10月、1軍では初めてのスタメン出場。英智が離脱したため、クライマックスシリーズでは全試合でスタメン起用された。

プロ発ホームランはサヨナラホームランだった。

2007年日本シリーズでドラゴンズが日本一を決定した試合。山井大介から岩瀬仁紀への継投ノーヒットノーランが注目された試合で唯一打点を挙げたのは彼。犠牲フライにより1打点、ドラゴンズはその1点を守り切り53年ぶりの日本一を決めた。

2010年

日本生命から入団した大島洋平野本圭との競争に敗れ2軍落ち。1桁の背番号も剥奪され、この年から背番号は40をつけることになった。

2011年

自身初の2桁本塁打を記録。2試合連続サヨナラホームランという記録も達成。チームのリーグ連覇に貢献した。

2012年

高木新体制となった2012年、2年連続で2桁本塁打を達成したが、打率・出場試合数ともに2011年より成績を落とした。

2013年

ライトのレギュラーに定着。打率.289、本塁打15本とキャリアハイを更新。オフに退団した井端弘和が付けていた背番号6を継承することになった。

2014年

前半戦は4番、後半戦は6番として起用された。初めて規定打席に到達。本塁打を11本打ち、4年連続2桁本塁打となった。

2015年

130試合と、自己最多の出場試合数を記録。打率.283、13本塁打と低迷するチームの中でも活躍し、初のベストナイン を受賞した。プレミア12にも選出され、打率.423を記録した。

2016年

打率.248、14本と低打率ながら6年連続の2桁本塁打を達成。FA権を獲得したが、行使せずに残留することを発表。

2017年

右膝の故障のため66試合の出場に止まり、7年連続2桁本塁打とはならなかった。

2018年

序盤は調子が上がらなかったものの、5月に月間打率.431を記録。8月16日、対横浜DeNAベイスターズ戦で史上68人目、73回目のサイクル安打を達成。最終的に打率.329と惜しくも同僚ダヤン・ビシエドに敗れ首位打者を逃したものの、自己最高を記録。ゴールデングラブ賞(通称:GG賞)も初受賞した。

2019年

開幕から1番で起用されたが、故障により離脱。7月には通算100号本塁打を達成。その後死球により2軍降格。9月10日に1軍昇格となるものの、結果的には95試合の出場となった。

2020年

開幕から不振が続き7月に2軍降格。8月に1軍に昇格すると通算1000安打を達成。9月にコンディション不良のため2軍に降格。その後再び1軍に昇格したが、2軍に2回降格したことが原因となり、55試合の出場でシーズンが終了した。

2021年

開幕1軍も、不振により2軍降格。7月に異形狭心症と診断されたため、1軍昇格はなく、最終的に21試合の出場に止まった。

2022年

立浪和義新監督が就任した2022年シーズン、開幕1軍スタートとはなったが、今まで平田が起用されてきたライトには若手の岡林勇希、レフトにはベテランの福留孝介が、センターには絶対的レギュラーの大島洋平、控えには三好大倫鵜飼航丞アリエル・マルティネスなどがおり、なかなか出場機会がなかった。

若手を積極起用する立浪監督の意向もあり、34歳の平田はなかなか出番が与えられず、シーズン終了を間近にした10月1日、退団が発表。球団から引退を打診されたが固辞し、自由契約。NPB復帰にこだわりオファーを待ったが、12月28日に引退を発表した。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]