岩田康誠

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岩田 康誠
My Emblem.JPG
マイエンブレム号と岩田康誠
園田競馬場、2008年11月3日)
基本情報
国籍日本国旗.png日本
出身地兵庫県姫路市
生年月日1974年3月12日(50歳)
身長160cm
体重50kg
血液型AB型
騎手情報
所属団体日本中央競馬会
所属厩舎兵庫・清水正人(1989 - 2006)
栗東・フリー(2006 - )
勝負服白・青襷(兵庫)
初免許年1991年(兵庫)/2006年(JRA)
免許区分平地
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岩田 康誠(いわた やすなり、1974年3月12日 - )は、日本中央競馬会 (JRA) 所属の騎手。1991年10月から2006年2月までは、兵庫県競馬組合の清水正人厩舎に所属していた。

来歴[編集]

兵庫県競馬所属時代[編集]

1990年代後半から小牧太JRA移籍まで、園田の2本柱と呼ばれた(2011年現在の2本柱は田中学木村健となっている。ただし川原正一が加わることがある)。

地方・中央で通算勝利数は3000勝(後述)を数え、中央競馬移籍までは地方競馬の同一施行者での生え抜き騎手の中ではトップであった(生え抜きに限らなければ中津競馬場から移籍してきた有馬澄男が2011年12月31日時点では通算で4000勝余りを挙げており、現役に限らなければ田中道夫が3166勝、小牧太が中央移籍までに3376勝を挙げている)。

デビューして数年した頃、田中道夫の重なったお手馬の片方に騎乗した際、鮮やかに勝利を収めた。田中は後に「アイツにだけは乗ってもらいたくないと思った」「康誠のスタートは出た瞬間、二の足三の足が違う」と回顧しており、当時からスタートが上手かったが、騎乗技術も備えており、1997年楠賞全日本アラブ優駿を見ると、馬上で激しく動く赤木高太郎に対し岩田の姿勢はぶれることなく最後まで馬を追い続けていた。

所属した当時は弱小であった清水厩舎の岩田と、有力馬を多数抱える曾和直榮厩舎に所属する小牧太とは互角に渡り合い、2000,2002年などで兵庫県のリーディングを奪っている。1996年には保利厩舎のケイエスヨシゼン兵庫アラブ三冠を達成し、同馬で全国のアラブ系競走を回った。兵庫県競馬史上、アラブ三冠は1970年アサヒマロットに次いで2頭目。このケイエスヨシゼンの騎乗時に、プレッシャーから吐いたとの逸話がある。本人も何度かインタビューなどで自分のプレッシャーに対する弱さを吐露している。

2002年ゴールデンジョッキーカップが9月5日に行われ、7月31日までに2000勝しているジョッキーが出場できるとされていた。当落線上にいた岩田の2000勝達成は8月1日にずれこんだが、特例として出場が叶った。

2004年は、小牧太がいなくなり自分が頑張らなければというプレッシャーと同年12月1日の落馬もあり、思うほど勝利数は重ねられなかったが、それでも279勝を挙げている。なお、当日園田金盃で騎乗予定だったロードバクシン有馬澄男に乗り替わっている。この落馬は長期間尾を引き完全回復まで2か月を要し、勘を取り戻したのは姫路開催からだったという。

中央競馬への遠征

兵庫県競馬所属時代から中央競馬にも積極的に参戦し、2002年にはビリーヴセントウルステークスを制して中央競馬の重賞を初制覇した。同馬とは3戦3勝と相性が良かった。

2004年には菊花賞デルタブルースで制し、地方競馬所属の騎手としては初めて中央競馬のクラシックを制覇した。また、地方競馬所属の騎手が中央の競走馬に騎乗してGI競走を制覇したのも史上初であった。

2005年、第1回WSJS地方騎手代表選定競走(現・スーパージョッキーズトライアル)に優勝し、第19回ワールドスーパージョッキーズシリーズには地方競馬代表として参戦。ゴールデンサドルトロフィーではオースミグラスワンで1着になるなど、総ポイントで41点を挙げ、総合優勝した(地方競馬の騎手が同シリーズを総合優勝するのは第8回(1994年)の石崎隆之船橋)、第11回(1997年)の川原正一(当時笠松所属)、第15回(2001年)の鮫島克也佐賀)に次いで4年ぶり4人目であった)。

前述のとおり、2005年12月8日の園田競馬第1競走で1着となり通算3000勝を達成した。1991年10月23日のデビュー以来、14年2ヶ月での達成は佐々木竹見についで史上2番目の速さである。

地方競馬のトップジョッキーだけに中央競馬への移籍は時間の問題と見られていた。そして、2006年度の新規騎手試験を受験し合格、3月より中央競馬の騎手として正式にデビューした。地方競馬から中央競馬へは安藤勝己、小牧太、赤木高太郎柴山雄一がこれまでに移籍したが、安藤と小牧は中央競馬の特例(下記参照)をクリアし中央に移籍した(その後、2008年に内田博幸が一次試験免除で中央移籍)。岩田はこの特例を2004年にクリアし、2006年度の新規騎手試験は二次試験からの受験が可能となっていた。なお過去2年続けて一次試験から受験している(本人曰く「円形脱毛症になるほど猛勉強した」[1] )が2度とも不合格となっていた。

中央移籍後[編集]

2006年に中央競馬に移籍した最初のレースをキアヌバローズで制し、移籍後初勝利を挙げる。秋にはタイムパラドックスJBCクラシックを勝利し、JRA移籍後の初GI勝利を果たした。さらに翌週には菊花賞でコンビを組んだデルタブルースと共に海外G1メルボルンカップに出走、見事に勝利し、自身初の海外G1勝利を果たした。

年末の第20回ワールドスーパージョッキーズシリーズには今度はJRA所属として前年に続き2年連続で参戦し連覇が期待されたが惜しくも2位だった。最終的に2006年は123勝をあげ全国リーディングでも武豊、藤田伸二に続く3位と素晴らしい成績をあげた。

また、12月24日にはJRAでの年間騎乗回数を952回を記録し、それまでのJRAでの年間最多騎乗回数は2004年に記録した柴田善臣の940回を超えて年間最多騎乗回数の記録保持者となった。

2007年、4月22日にJRA通算300勝達成、同日に行われたアンタレスステークスではワイルドワンダーで優勝し、花を添えた。

アドマイヤの冠名を使用するオーナー近藤利一の意向により、同年の宝塚記念では、それまで武豊が主戦を務めていたアドマイヤムーンに初騎乗し、中央移籍後初の中央GI制覇を達成した。また、7月2日から7月8日まで自身2度目となる海外遠征で、キャッシュコールマイルアメリカンオークスに参戦するもそれぞれ5着という結果だった。その後は、松田博資調教師からは「アドマイヤ」はもちろん、それ以外の管理馬の多くを騎乗依頼を受けていた。しかし、ジャパンカップのアドマイヤムーン以降、調教師・松田博資の管理馬への騎乗が激減している。

同年9月1日に札幌競馬第10R富良野特別において、最後の直線で斜行し2位入線から14着(最下位)に降着となり、JRAに移籍してから初の騎乗停止となった。期間は9月8日から9月16日までの開催日4日間。騎乗停止から戻ってきた9月17日、阪神競馬第7競走において、最後の直線で斜行したことにより、過怠金の処分を受けた。その5日後の9月22日、札幌競馬第12Rニセコ特別において、4コーナーで斜行、6位入線から16着(最下位)に降着。これにより、9月29日から10月7日までの開催日4日間の騎乗停止処分となり、短期間で2度も騎乗停止処分を受けてしまうことになった。その後、10月28日までに関西所属騎手の中で2位となる中央で126勝を挙げたことから11月8日に第21回ワールドスーパージョッキーズシリーズへの出場が発表された。11月25日の第27回ジャパンカップではアドマイヤムーンに騎乗し、近藤利一とのトレードで新オーナーとなったダーレー・ジャパン・ファーム(有)の中央登録後初のGI制覇に導くと共に中央競馬での左回り競馬場で初めてGI競走を制覇した。一方第21回ワールドスーパージョッキーズシリーズは31ポイントで5位タイと過去最低の結果に終わった。さらに12月3日から12月6日までこの年2度目の海外出張届を提出し、香港ジョッキークラブインターナショナルジョッキーズチャンピオンシップに初出場した。12月5日にハッピーバレー競馬場で行われた同チャンピオンシップ第1戦で香港初騎乗を果たし、スーパーファイターに騎乗し3着となった。なお、同チャンピオンシップは3戦で4点を獲得し8位だった。騎乗後「短期免許などでも(香港に)来てみたい。来年も招待されるように頑張りたい。」といった発言を残した。

2008年は、アドマイヤジュピタ天皇賞(春)ウオッカ安田記念ブラックエンブレム秋華賞セイウンワンダー朝日杯フューチュリティステークスを制覇し、重賞も多数勝利するなど大舞台での活躍が光る。この年JRA賞最多賞金獲得騎手を獲得。

2009年アンライバルド皐月賞を制覇。同レースではもう1頭のお手馬で前年の2歳王者セイウンワンダーとの騎乗選択の末に勝ち取った勝利でもあった。

2010年ヴィクトワールピサ皐月賞を制覇。史上4人目の連覇。このレースは1番人気に推された同馬を終始インコースの後方でじっとさせる大胆な騎乗を披露し見事勝利。本来は主戦である武豊が落馬事故で負傷したため乗り替わりで大きな重圧、また中央競馬移籍前から騎乗機会の多かったオーナー市川義美悲願の初G1初制覇ということもあり涙を見せた。

同年、9月4日レース中の落馬事故により左外側のくるぶし骨折、右鎖骨骨折、頭部打撲の重傷を負い移籍後初の長期離脱。11月13日に復帰しその翌週、マイルチャンピオンシップエーシンフォワードに騎乗して勝利。

2011年アヴェンチュラ秋華賞を、ブエナビスタジャパンカップを制覇し、2度目のJRA賞最多賞金獲得騎手を獲得。この年は福永祐一との熾烈なリーディングジョッキー争いを繰り広げ、終始リードするも最終日に逆転を許しわずか2勝差で悲願のタイトルを逃す。しかし(地方競馬での)中央・地方交流競走の勝利数を合算した勝利数で福永を上回り、JRA賞最多勝利騎手は岩田が受賞した。

2012年桜花賞ジェンティルドンナフェブラリーステークステスタマッタで制覇。優駿牝馬は騎乗停止で騎乗できなかったが、騎乗停止明けの東京優駿(日本ダービー)をディープブリランテに乗って制覇し、安藤勝己、内田博幸に続いて地方競馬出身騎手で3人目のダービージョッキーとなった。2012年の日本ダービーでの騎乗馬のディープブリランテは折り合い面に問題があり、岩田自らが付きっきりで調教を行うことで厩舎サイドとも反発しあったが、それも乗り越えてさらに絆を深め日本ダービーを制覇し、自身7回目の日本ダービー挑戦にして初勝利を飾り、涙のウイニングランを果たした[2]。またロードカナロアスプリンターズステークス香港スプリント(香港スプリントは日本馬として初勝利。ロードカナロアで翌年もこの2競争を制したほか、重賞では阪急杯高松宮記念安田記念の計5戦に勝利)、ジェンティルドンナでジャパンカップにも勝利したため2012年はGI8勝を挙げている。リーディング争いでは浜中俊に敗れたものの、(地方競馬での)中央・地方交流競走の勝利数を合算した勝利数で浜中を上回り、2年連続でJRA賞最多勝利騎手は岩田が受賞した。

そして2014年5月25日、地方から中央に移籍した先輩安藤勝己が残したJRA勝利記録、1111勝を2つ更新し、ジェンティルドンナで逃してしまった優駿牝馬ヌーヴォレコルトで制したことにより、史上7人目のクラシック完全制覇を果たした。

中央所属後の地方競馬での参戦[編集]

中央移籍後も地方競馬へは積極的に参戦しており、毎年100鞍近くに騎乗している(2013年は108鞍)。特に園田・姫路競馬参戦時はJRA交流競走以外の一般・特別競走にも頻繁に騎乗している上に、時には地元重賞に騎乗する事もあるが、JRA移籍後はまだ地方馬限定の兵庫の重賞勝ちは無い(ダートグレード競走兵庫チャンピオンシップ兵庫ゴールドトロフィーを勝っているが、いずれも中央馬でのものである)。なお、中央移籍後も園田・姫路競馬で兵庫所属馬に騎乗する際の勝負服は、これまで通りの白・青襷である。

園田・姫路競馬以外の地方競馬参戦も比較的多く、特に南関東公営競馬参戦時は園田・姫路競馬参戦時に負けず劣らず一般・特別・地元重賞騎乗が多い。ただし、賞金が低い高知競馬などでも一般戦に騎乗しているので、必ずしも賞金の高低で騎乗の可否を選んでいるわけではない。

人物[編集]

中央に移籍して以来、マスメディアへの露出増加に伴ってその天然キャラも注目されている。

  • レース後や調教後のインタビューのコメントとして「バキューン」や「ズキューン」など擬音を多用する。
    • その後、このような擬音を四位洋文も使うようになった。
  • インタビューでは噛みまくるシーンがよくみられる。武豊は冗談でミルコ・デムーロの方が日本語がうまいと言っている。
  • 印象に残った馬の名前として色紙に「イチゴイチエ」と書くつもりが「イチゴイチエイ」と記入してしまう。
  • 2007年の阪神大賞典後のレースコメントでは「スローペースなので下げました」と発言(通常競馬ではスローペースの際は馬を追って位置を上げる) 。
  • また、同年の金鯱賞のインタビューで嬉しさのあまり、「きんか賞」と言って笑顔で締めくくっている。
  • 騎乗依頼仲介者小原靖博競馬ブック)。
  • 騎手になったきっかけは、姫路競馬場の裏にある実家のお好み焼き屋に来客した競馬ファンの男性に「騎手になったらどうや?」といわれ、騎手という職業があることをはじめて知ったという。
  • 騎手になっていなかったら何をしていたかとテレビで質問された際には、「田植えかニート、またはローソンのバイト」と答えている。
  • 中学卒業後の進路として地方競馬教養センター以外に高等学校への進学も視野に入れていたが、本人曰く「自分の名前が書くことができれば受かる」レベルの高校の入試で氏名の「岩田康誠」の「誠」の右上の点を打ち忘れて不合格になり、競馬学校に入学した。
  • ドラマ「GI DREAM」(2013年2月2日放送)に本人役で出演。
  • 1996年にケイエスヨシゼンで兵庫アラブ三冠を達成したが、三冠目の六甲盃ではプレッシャーで胃液を戻してしまった。[3]
  • 妻は岩田の2歳年上で、武豊曰く「超美人」である。また妻は岩田のレースを全てチェックしており、岩田はまるで「先生のようだ」と言っている。
  • 息子が2人、娘が1人いる。2016年に次男、岩田望来がJRA競馬学校に入学した。2019年デビュー予定である。同じ苗字で岩田英利久も競馬学校に在籍しているが、岩田康誠との関係はない。
  • 学生時代には陸上をやっており、長距離の選手であった。
  • 初めて買ったレコードはC-C-Bの「Romanticが止まらない」である。

評価[編集]

  • 現在はJRA所属騎手であり、岩田と同じく過去に園田競馬に所属していた小牧太は、「康誠は新人のときから、ちょっと違ってたな。ホンマにゲートが早かった。天下一品やった。そして長手綱でサーッと乗ってきてな」[4]「彼(岩田)がデビューしたとき、それこそ「すごい新人が出てきたな」と思ったよ。スタートがなんせ巧くて、どんな馬に乗っても飛び抜けて速かった。「こういう子を天才っていうんやな」と思ったもん。最初から天才的やったわ、アイツは」[5]と評価している。
  • JRA所属の騎手藤田伸二は岩田について、勝ちにこだわりレース勘が備わっていると評価する一方、「馬の背中にトントンと尻をつけるような」騎乗フォームについては、見た目が不恰好である上「馬の背中を痛めてしまう」という理由から「絶対に認めたくない」と否定している[6]。藤田は、岩田がレースに勝つのはこのような騎乗フォームによるものではなく、「強い馬に乗っているから」に過ぎないと述べている[7]。また藤田は岩田の、自身も安全に配慮した騎乗が十分にできずしばしばJRAによる制裁の対象となっているにもかかわらず若手の騎手に対しては安全に配慮した騎乗ができていないとジョッキールームで「威圧」する姿勢を批判している[8]

中央競馬の特例[編集]

5年間で年間20勝以上を2回クリアすると、一次試験の筆記試験(国語・数学・競馬法規)が免除され二次試験(技能試験と面接)から受験できる。この特例は、その当時から中央競馬でも非常に顕著な活躍を見せていた安藤勝己が、一次試験から受験し不合格となったため設けられた特例である。

この特例を利用し、園田の小牧太、笠松の安藤勝己、そして岩田が合格した(その後2008年に大井の内田博幸も合格)。この特例を岩田の他に、名古屋競馬吉田稔も2004年にクリアしていたが、吉田は2006年度 - 2008年度まで騎手試験には3度不合格となった。

この特例が設けられていた期間中に地方競馬から中央競馬へ移籍した騎手の中には、一次試験から受験した赤木高太郎・柴山雄一・安藤光彰鷹野宏史戸崎圭太岡田祥嗣が合格している。競馬学校で一次試験の勉強をしている騎手候補生とは違い、競馬学校や地方競馬教養センターに行く時間が取れず、毎週競馬に乗り、毎日調教をこなし、さらに独学で勉強をしなければならない地方所属騎手は、この一次試験に合格するのは非常に困難である。

年度別成績表[編集]

  • 地方競馬(中央移籍前)
1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率
地方 2941 2119 1785 13099 .225 .386 .523
中央 137 109 104 1189 .115 .207 .294
  • 中央競馬
年度 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率
2006年 126 114 115 952 .132 .252 .373
2007年 145 115 123 873 .166 .298 .439
2008年 118 106 88 852 .138 .263 .366
2009年 109 106 104 896 .122 .240 .356
2010年 82 82 66 691 .119 .237 .333
2011年 131 137 88 888 .148 .302 .401
2012年 119 101 105 532 .139 .257 .379
2013年 111 111 80 552 .130 .260 .354
2014年 136 125 102 905 .150 .288 .401
中央 1077 997 871 7141 .135 .258 .367
地方 114 83 72 443 .209 .393 .541

表彰[編集]

主な騎乗馬[編集]

斜字は国際競走以外のダートグレード競走太字は海外GIを指す)

GI級[編集]

GII・GIII級[編集]

その他[編集]

園田ダービーを制したグレートステージ(2005年)

愛称[編集]

福永祐一からは「岩田君」と呼ばれている(福永祐一は年下である)

脚注[編集]

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  1. フジテレビ「チャンネルΣ クイズ!ウマい話」2012年9月29日
  2. JRAホームページデータファイル-競走成績 http://www.jra.go.jp/datafile/seiseki/g1/derby/result/derby2012.html
  3. 「優駿」2013年3月号
  4. 小牧太&岩田康誠/運命の対決”. UMAJIN. 2011年2月20日確認。
  5. 太論”. netkeiba.com. 2016年4月5日確認。
  6. 藤田 2013, p. 73.
  7. 藤田 2013, pp. 73–74.
  8. 藤田 2013, pp. 41–42.
  9. マリーンカップ競走優勝馬 - 南関東4競馬場公式  2015年4月16日閲覧
  10. 2015年レース結果 - JBISサーチ  2015年4月13日閲覧
  11. 2015年レース結果netkeiba.com 2015年1月19日閲覧
  12. 2015年レース結果 - netkeiba.com  2015年4月1日閲覧
  13. 2015年レース結果 JBISサーチ 2015年5月7日閲覧

参考文献[編集]

  • 藤田伸二 『騎手の一分 競馬界の真実』 講談社〈講談社現代新書2210〉、2013年。ISBN 978-4-06-288210-1

関連項目[編集]

外部リンク[編集]