孫堅

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孫 堅(そん けん、156年 - 192年)は、中国後漢末期の武将群雄三国時代の事実上の創始者。孫策孫権孫翊孫匡孫朗[1]孫夫人らの父。孫権が皇帝即位すると武烈皇帝(ぶれつこうてい)と諡された[2]文台(ぶんだい)[3]。妻は呉夫人

生涯[編集]

武名を挙げる[編集]

呉郡富春(現在の浙江省富陽)の出身[3]。孫家は代々呉郡の役人を勤める家柄で、街の東に先祖代々の墓があったが、その上にしばしば光が見えるなどの不思議があり、地元の人々から孫家はきっと栄えるであろうと言い合ったという[3]。なお、祖先は兵法家で有名な孫子とされる[3]が定かではない。

孫堅は次男であり、兄に孫羌、弟に孫静がいる[4]

17歳の時、海賊を退治してその武名を近隣に轟かせ官職に就き、頭角を現した[3]。さらに会稽郡(現在の浙江省東部)の妖賊である許昌を討って武名を挙げていった[3]

184年黄巾の乱が起こると、孫堅は反乱鎮圧に貢献して著しい戦功を挙げた[3]

涼州で反乱が起こると、司空張温に従ってその平定に向かい、長安董卓に出会った[3]。しかし董卓は遅参したり傲慢な態度をとったため、孫堅は張温に対して董卓を斬るように主張した[3]。張温は決断できなかったが、そのため董卓との仲は悪くなった[3]

長沙郡(現在の湖南省長沙一帯)で区星が勝手に将軍を名乗って1万の軍を率いての反乱を起こすと、孫堅は長沙郡太守に任命されて反乱の平定を命じられた[5]。孫堅は有能な役人を任用し、官民を手厚く遇して公文書の処理を正常な手続きにし、捕らえた賊は勝手に処刑したりせずに自分の下へ送るように厳命したため民心が安定し、区星の乱は1ヶ月で平定された[5]。さらに郡の境界を越えて零陵郡桂陽郡の反乱も平定したため、鳥程侯に封じられた[5]

董卓との戦い[編集]

190年、各地の諸侯が挙兵して反董卓の乱が起こると、孫堅は袁術に従って参戦し、南から洛陽を目指して進軍した[5]。孫堅はその北上において荊州刺史王叡を殺し、南陽郡太守の張咨も殺して自らの兵力を拡大した[5]。そして魯陽(現在の河南省魯山)において袁術と合流し、破虜将軍と豫州刺史を兼務の形で任命された[5]

孫堅は魯陽で兵を鍛錬し、約50キロほど北にある陽人に進出して洛陽を伺った[6]。小心な袁術は家臣から孫堅を使って董卓を除いても狼を除いて虎を得たようなものだと言われると動揺し、孫堅に対して兵糧を送らなくなった[6]。孫堅は自ら魯陽にいる袁術の下に赴いて「私が我が身を投げ出して顧みないのは上は国家のために賊徒を討伐しようとしてであり、下は貴方の家門の仇を報じて差し上げようとしてのことです。私は董卓との間に個人的な怨みはありません。それですのに貴方は遠まわしな陰口を信じられ、かえって私のほうを疑われるのですか」と述べた[6]。これには袁術も返す言葉がなく、すぐに謝罪して兵糧を手配したので、孫堅は陽人に戻った[6]

董卓は北上する孫堅の勢いを恐れ、部下の李傕を派遣して孫堅を官職の昇進などを条件にして和睦し懐柔しようとしたが、孫堅はその申し出を一蹴した[6]。190年11月、孫堅は北上を開始し、大谷関で董卓の部下・郭汜が率いる軍と対峙する[7]191年1月、孫堅は郭汜軍を破った[7]。董卓はこの孫堅の勢いを恐れて洛陽を焼き払って長安遷都した。このため、孫堅が洛陽に入城した時にはここは焼け野原であり、孫堅は董卓に荒らされた皇帝皇族の陵墓の修復に着手し、埋められた井戸を掘り返して生活環境を整える作業も開始した[7]。この作業の際、孫堅は皇帝のシンボルである「玉璽」を発見したとされるが、これに関しては陳寿の『三国志』に記録は無く、裴松之の註の『呉書』に載って引用されている。それによると「孫堅が洛陽を整備する作業で、城南の甄官井を整備している時、井戸の中から朝になると五色の気が立ち上がったので、孫堅が井戸の中を探ってみると漢の「伝国の玉璽」が発見された。四角四寸の大きさで、印文には「受命于天既寿永昌」(命を天より受け、既に寿(いのちなが)くしてまた永昌ならん)とあり、形は上が円く、紐をかけるところに五匹の龍がわだかまっていて、そのうちの一匹の角が欠けていた。これは王莽前漢を簒奪した際、玉璽を奪い取ろうとした時に皇后が玉璽を床に投げつけてできた疵である。189年に洛陽で袁紹らによる宦官殺戮劇があった際、生き残った宦官がその混乱にまぎれて玉璽を井戸に投げ込んだのである」とされている。

最期[編集]

192年、孫堅は袁術から新しく荊州刺史となった劉表を討つように命じられ、これに応じて出陣した[8]。董卓討伐軍が解散すると、諸侯は袁紹派と袁術派に分裂し、劉表は袁紹派に属していた。袁紹と不仲である袁術にとっては面白いはずがなく、その勢力を削ぐために代理戦争の意味合いで孫堅に討たせようとしたのである[9]

劉表は部下の黄祖を迎撃に派遣したが、孫堅は黄祖を一蹴した[4]。このため劉表の本拠地である襄陽は陥落の危機に迫られた[4]

しかしこの後、孫堅はあっけなく戦死する。その戦死に関しては諸説がある。襄陽の東の山を単騎で通行していた時、黄祖の部下に弓で狙撃されて殺された[4]。または落石により命を落としたという[4]。享年37[4]

脚注[編集]

  1. 孫朗に関しては裴松之の註に引く『志林』にあり、実在が疑問視されている。
  2. 伴野朗『英傑たちの三国志』、P94
  3. a b c d e f g h i j 伴野朗『英傑たちの三国志』、P87
  4. a b c d e f 伴野朗『英傑たちの三国志』、P93
  5. a b c d e f 伴野朗『英傑たちの三国志』、P88
  6. a b c d e 伴野朗『英傑たちの三国志』、P89
  7. a b c 伴野朗『英傑たちの三国志』、P90
  8. 伴野朗『英傑たちの三国志』、P91
  9. 伴野朗『英傑たちの三国志』、P92

参考文献[編集]