合唱コンクール

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合唱コンクール(がっしょうコンクール)とは、企業・音楽団体などが主催する合唱のコンクールである。学校が行うものは、「合唱祭」といい、いちおう別枠なはずだが、学内でコンクールが行なわれていることもある。

概要[編集]

形態や主催は様々だが、原則として参加するのはアマチュア団体のみで、プロを目指す登竜門的な存在ではないという点は共通している。

世界各地にこの種のコンクールが存在し、様々な国の合唱団が集結するコンクールも少なくない。

学校行事としての「合唱コンクール」[編集]

「学級(クラス)の結束を強めるため」としてクラス対抗で行われる学校行事である。クラスを1つのチーム(合唱団)として競わせ、優勝を決める。審査員は主に音楽教員や教職員である。優勝しても学校から表彰される以外には特に何もなく、対外的な権威付けなど無いに等しいのに、(同じ学校の生徒という身内しか見ていないにも拘わらず)みっともないものは見せられないという理屈で「長時間の練習があって当たり前」の空気が醸成されている。

チームごとに「課題曲」「自由曲」の二つがあるのが合掌コンクールのお約束であるが、同じ曲を何度も聞かされるほうも苦痛だろうし、それに付合わされる児童・生徒もしんどい。そのため、「課題曲」は指定されず、自由曲といいつつ担任がいくつか候補を示して一方的に決める(「生徒の意見を尊重したうえで判断した」というエクスキューズつきである)ことがままある。
「合唱部」がある学校は、クラス対抗試合をする必要がなく、1年の任意のタイミングで実施される。これは球技大会と似たようなものである。一方、合唱部がない学校では文化祭の時期に開催される傾向が強い。

学校行事としての「合唱コンクール」独自の文化として、指揮者が構えたら全員が一斉に足を広げて立ち、その姿勢で歌うというものがある。
合唱コンクールが多くの学校に広まったのは校内暴力等の非行が多発し、学校が荒れた時代に合唱で統率を取らせるというやり方が一定の効果を示したためだと言われ、指揮者が構えたら全員が一斉に足を広げて立つように指導するのもその時代の名残とされる。このあたりも球技大会と似たところがある。

クラス替えをする際にピアノが演奏できる児童・生徒を各学級に振り分けるのも合唱コンクールでピアノの伴奏を子供が行うためで、ある学級にピアノを演奏できる児童・生徒が居なかった場合は音楽教員が演奏を担当する場合もあれば、アカペラで乗り切る場合もある。小学校だと指揮はクラスの担任教師、伴奏は音楽教員とすることが多い。

開催時期が近づくと音楽の授業は合唱の練習時間に充てられ、総合的な学習の時間学活/ロングホームルーム昼休み放課後までも合唱の練習時間に充てられる。練習は伴奏者の練習も兼ねてピアノを使うことが望ましいが、ピアノの台数に限りがあるためラジカセを使用したり、キーボード、電子ピアノを使用したりする。そして平時の授業よりも高い確率で教員が子供の練習に臨む態度に不満を持って指導監督を放棄して職員室に帰ってしまう事象が発生する。

地域によっては単一自治体や複数の自治体からなる郡が主催し、複数の学校を集めて合唱コンクールを開いていることがある。こちらは学校同士の交流が主目的で、学年全員、学級全員で参加する例から各学校の合唱部が参加する例もある。順位を決めるわけでもないのに校内の順位を決める合唱コンクール同様、開催時期が近づくと長い時間練習が行われる。

合唱祭[編集]

学園祭については、「学究の場である学校において『祭』などは必要ない」という意見が学園紛争時代にあったらしいが(さすがに私も生まれていない)、さすがに「唱う」ことは学校側も禁止することができず、「クラス対抗行事で判定するのが学校というのはおかしくないか?」というので「合唱祭」が生まれ、「課題曲なし」「コスチュームOK」「『休め』の姿勢は強制しない」という「合唱祭」という言葉も廃れつつあり、現在ではバンド活動も盛んなので、「合唱」に限らず「音楽祭」と呼ばれることも多いため、「バンド対抗戦」に近いものになりつつある。

敢えてクラシック路線を選んで「流浪の民」やハイドンの「メサイア」(「ハレルヤ・コーラス」)やベートーベンの交響曲第九(「合唱付」)で勝負してくる奴もいればナイロンズの『ライオンは寝ている』で勝負してくる猛者もいる。いちおう全員参加が建前なので、男女混合となるとなかなか配置が難しい。ノーランズの「ダンシング・シスターズ」とか、「イェベン・ポルッカ」など、ア・カペラでできる曲はけっこうあるが、クラシックのほうが頭数が要るので連帯感は強まると思われる。