古田敦也

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Baseball Pitcher.jpg 古田敦也 Baseball Batter.jpg
基本情報
登録名 (本名)
本名 {{{本名}}}
出身地 兵庫県川西市
生年月日 1965年6月6日
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 捕手
身長 180 cm
体重 80 kg
所属チーム {{{所属チーム}}}

古田敦也(ふるたあつや、1965年8月6日-)とはヤクルトスワローズに所属していた兵庫県出身の日本の元プロ野球選手(捕手)、監督である。

経歴[編集]

プロ入りまで[編集]

兵庫県立川西明峰高等学校出身。高校時代までは目立った活躍は無く、無名の存在だった。大学進学の際に立命館大学の監督の誘いを断りきれず当初進学するつもりだった関西大学ではなく立命館に進学した。この頃から後にトレードマークとなるメガネを常用し始めた。 大学時代に才能が開花し関西学生野球リーグでベストナインを4度獲得し、一躍プロ球界の注目の的となった。しかし当時の球界には「メガネの捕手は大成しない」という固定観念があり[1]、1987年のドラフト会議ではどこからも指名されなかった。 このことに奮起した古田は大学卒業後も野球を続けることを決意。社会人野球のトヨタ自動車に入社した。トヨタ自動車では1年目から正捕手の座を勝ち取り、1988年のソウルオリンピック野球日本代表に選出され銀メダル獲得に貢献した。

ヤクルトスワローズ時代[編集]

ソウルオリンピックにおける活躍がヤクルトスワローズのスカウトの目に止まる。当時の野村克也監督は「メガネの捕手」の指名に最後まで難色を示したが、スカウトが説得し、古田は1989年のドラフト会議で2位指名され入団。背番号は27。 入団1年目から肩の強さを買われ、名捕手として知られる野村監督にリードを仕込まれながら正捕手として起用された。2年目の1991年に首位打者のタイトルを獲得すると打てる名捕手という評価が確立する。以降「野村ID野球の申し子」と呼ばれ巧みなリードとシェアなバッティングで5度のリーグ優勝と4度の日本一を果たしたヤクルトの黄金時代を支えた。ちなみに野村監督時代の古田のシーズン別成績とヤクルトの順位は連動しており、古田が好調の年はリーグ優勝、日本一で不調の年はBクラスという成績となっている。これほど個人成績とチームの順位が結び付いた選手も珍しい。

2004年に起きた球界再編問題では選手会の代表として活動した。(後述)

2005年4月24日の広島戦で通算2000本安打を達成。捕手としては野村克也以来2人目で大卒・社会人経由で入団した選手としては初の偉業を成し遂げた。守備で高いレベルが求められる捕手が2000本安打を達成することもプロ入りが遅くなる大卒・社会人入団選手が2000本安打を達成することも非常に難しく、2015年現在も前者は野村、古田、谷繁元信の3名、後者は古田と宮本慎也和田一浩の3名[2]しかいない。

2006年、勇退する若松勉監督の後任として日本球界では野村克也以来の選手兼任監督に就任。ファンや解説者からは選手としてのイメージから緻密な守備型野球をすると思われたが、蓋を開けてみるとOPS順打順や2番強打者論を採用し攻撃型野球を推し進める。守備と投手力を軸にして黄金時代を築いた野村野球からの転換を図ったが古田自身の(監督になったため)出場が減り、投手陣の不調も相まって2年間で3位(貯金1)、6位という結果となった。この責任を取り2007年限りで監督を辞任、同時に現役を引退した。

その後[編集]

  • 監督退任後は野球解説者/野球評論家としてテレビ、新聞で活動を続けている。
  • 選手兼任監督は責任が重すぎたという声もあり、専任監督でもう一度球界に復帰してほしいという意見も多い。ヤクルトに限らず他球団で監督交代があるときも後任候補として度々名前が挙がっている。
  • プロ野球球団のエクスパンジョン(球団数増加)に積極的で、プロ野球球団誘致自治体の協議作業チームのメンバーであることを2020年に明かした。

日本プロ野球選手会会長[編集]

2004年に大阪近鉄(旧バファローズ)オリックスブルーウェーブとの合併を発表したことに端を発する球界再編問題に選手会会長として対処した。

発表では両球団の合併と1リーグ制移行前提の縮小再編を進めることがオーナーサイドから明らかにされた。これに対し、古田率いる選手会は旧バファローズを合併ではなく他の会社(ライブドアが手を挙げていた)に身売りして、現行の2リーグ12球団制維持を求め激しく対立した。このとき古田は旧バファローズ選手会長の礒部公一とともに横暴なオーナーに立ち向かう選手会側の代表として多くのファンや世論から激励を受けた。しかし交渉は決裂し日本プロ野球史上初となるストライキを決行することとなる。オーナー側は「ストライキはファンの支持を失う」と脅し、あくまで縮小再編に拘ったが、大多数のファンは選手会を支持したためストライキへの批判は少なかった。古田らの奮闘むなしく、2004年オフに近鉄はオリックスに吸収合併され、オリックスバファローズになってしまったが、妥協案として東北楽天ゴールデンイーグルスが参入し2リーグ12球団制は維持された。

強引な姿勢で1リーグ制移行を進めたオーナー側に立ち向かい2リーグ12球団制を守った古田ら選手会の活躍は今なお評価されている一方、大阪近鉄の消滅は撤回できなかったため、楽天新規参入後の選手分配で、オリックス側のプロテクトに抗議した礒部ら一部の選手を除き、旧バファローズの選手に所属の選択は認められず、そうした面の犠牲を伴ったことは否めない。

人物[編集]

  • メガネをかけた風貌から「のび太くん」の愛称で親しまれている。ちなみに古田の誕生日は野比のび太と1日違いである。
  • 恩師である野村克也からは野球観など多くの影響を受けていると本人は語っているが、そこまで仲が良いわけでもなく野村のボヤきのタネとなっている。[3]
  • ファンサービスに力を入れており、ヤクルトが「東京ヤクルトスワローズ」と改称したのも地域密着型ファンサービスに力を入れるべきという監督時代の古田の進言によるものである。

通算成績[編集]

年数 出場試合数 通算打率 通算打数 安打数 本塁打数 打点数 得点数 三振数 盗塁数 四球数 死球数
18年 2008 .297 8115 2097 217 1009 1003 951 70 748 111

[4]

その他の記録

  • 1試合本塁打 - 4本(2003年6月28日)※日本タイ記録
  • シーズン盗塁阻止率.644 (1993年)※日本記録

獲得タイトル[編集]

  • 首位打者 - 1回(1991年)
  • 最多安打 - 1回(1993年)※当時連盟表彰なし
  • シーズンMVP - 2回(1993,1997年)
  • ベストナイン - 9回(1991~1993,1995,1997,1999~2001,2004年)
  • ゴールデングラブ賞 - 10回(1990~1993,1995,1997,1999~2001,2004年)
  • 正力松太郎賞 - 1回(1997年)
  • 日本シリーズMVP - 2回(1997,2001年)

注釈[編集]

  1. 捕手はフライを捕球する際にマスクを外す必要があるが外す時にメガネがずれたり外れたりすることが難点とされてきた。古田はメーカーと協力して開発した外れにくい特注のメガネを使用することでこれを解決した。
  2. 落合博満も大学・社会人経由で入団して2000本安打を達成しているが大学を中退している。
  3. ただし野村はファンサービスのためにあえて本心と異なる苦言を呈することもあり一概には言えない。
  4. http://meikyu-kai.org/member/batter/atsuya_furuta.html