劉友 (趙王)

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劉 友(りゅう ゆう、? - 紀元前181年[1])は、前漢皇族で淮陽王・趙王の地位にあった[1]

生涯[編集]

前漢の初代皇帝高祖の6男。兄に第2代皇帝・恵帝や第5代皇帝・文帝がいる。

父の時代に淮陽王に封じられ、兄の恵帝の時代に趙王に封じられる[1]。妻には呂太后の一族の娘を娶せられていたが、劉友はこの高慢で嫉妬深い妻を愛さずに別の女性を愛したので、嫉妬した妻は呂太后に対して「趙王は呂太后が死ねば、呂氏一族を皆殺しにしてやると言っている」と讒言した[1]。これを聞いた呂太后は激怒し、劉友に長安に上京するように命じ、劉友が命令に応じて上京した際に邸宅に監禁し、さらに衛兵にその邸宅を囲ませて食事を与えないようにした[1]。趙王の家臣が食事を差し入れようとしたが、見つかって殺されたり厳罰にされたりしたので包囲はますます厳重になり、劉友は邸内で餓死したという[1]

死去する前、劉友は「諸呂、事を用いて劉氏危うし」という歌を作っている[1]。その最後のくだりは「王となりて餓死するも、誰か之を憐れまん、呂氏は理を断つ、天に託して仇を報ぜん」であった。

劉友の後継の趙王にはすぐ上の兄である劉恢が封じられた。

なお、劉友が死去してから12日目に日食が起こったという。

紀元前180年陳平周勃劉章らによって呂氏一族が滅ぼされ、兄の劉恒が文帝として即位すると、遺児の劉遂が趙王に封じられ、劉遂の弟の劉辟彊は河間王に封じられた。

脚注[編集]

  1. a b c d e f g 青木五郎、中村嘉広 編『史記の事典』大修館書店、2002年、p.569

参考文献[編集]