全日本金属労働組合

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

全日本金属労働組合(ぜんにほんきんぞくろうどうくみあい)は、かつて存在した機械・金属産業の労働組合。略称は全金属産別金属産別会議の主力単産。

概要[編集]

1948年10月11日に産別傘下の全日本機器労働組合(全日本機器)、全国車輌産業労働組合(全国車輌)、全日本鉄鋼産業労働組合(全鉄労)が合同して結成した[1]。同年12月10日に産別傘下の全日本電気工業労働組合(全電工)、中立の全日本造船労働組合(全造船)、全日本自動車産業労働組合(全自動車)、全日本電線工業労働組合(全電線)と全日本金属産業労働組合協議会(大金属、45万人)を結成したが、大産別組織の結成には至らなかった[2]。この過程で参加単組の産別脱退が相次ぎ、1948年10月29日に産別民同全国機械工業労働組合(全国機械)を結成している[3]。1949年10月に民同派の脱退で弱体化した全電工を統合した[4]

1953年から総評傘下の全国金属労働組合との統一が議論された[5]。同年秋には産別加盟組合は全金属、全医協の2単産12,000人のみとなっており[6]、1956年7月の産別第6回大会では全金属、全医協の戦線統一問題を推進することが確認された。1956年10月の全金属第8回定期大会では総評全国金属との統一に埼玉、愛知、大阪各支部は賛成、東京、神奈川、三重各支部は強硬に反対したが、最終的に統一の方針が決議された[5]。1958年2月15日に総評全国金属と組織統一を実現した。これに伴い産別会議は全医協を残すのみとなったため解散した[7]

1989年2月に総評全国金属から脱退した中里グループが結成した全日本金属情報機器労働組合(JMIU)には、かつて全金属に所属した単組が多く参加した[8]

関連人物[編集]

  • 吉田資治 - 産別金属委員長、産別会議議長、日本共産党中央委員を務めた。
  • 金子健太 - 産別金属委員長、産別会議幹事、日本共産党国際部長を務めた。
  • 西川彦義 - 産別金属書記長を務めた。
  • 原全五 - 産別金属中央支部書記局員、大金属関西地協担当オルグ、同常任執行委員を務めた。
  • 小沢路子 - 戦前からの労働運動家。産別金属本部書記、日本共産党神奈川県中部地区委員、新日本婦人の会神奈川県本部代表委員を務めた[9]
  • 平沢栄一 - 産別金属大阪支部副委員長、日本共産党大阪府委員会副委員長を務めた。総評全国金属書記長を務めた平沢栄一とは別人。

出典[編集]

  1. 全金属(全日本金属労働組合)[労]1948.10.11 法政大学大原社会問題研究所
  2. 大金属(全日本金属産業労働組合協議会)[労]1948.12.10 法政大学大原社会問題研究所
  3. 『総評四十年史』編纂委員会編『総評四十年史 第1巻』第一書林、1993年、126頁
  4. 労働省編『資料労働運動史 昭和27年』労務行政研究所、1953年、1047-1048頁
  5. a b 労働省編『資料労働運動史 昭和31年』労務行政研究所、1958年、913-914頁
  6. 労働省編『資料労働運動史 昭和31年』労務行政研究所、1958年、909頁
  7. 産別会議解散,全国金属・全金属統一[労]1958.2.15 法政大学大原社会問題研究所
  8. 高木郁朗『ものがたり現代労働運動史1 1989~1993――世界と日本の激動の中で』明石書店、2018年、28頁
  9. 江刺昭子、史の会編著『時代を拓いた女たち』神奈川新聞社、2005年、88-89頁