元寇

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元寇(げんこう、英:Mongol invasions of Japan)とは、1274年1281年の二回に渡って行われた、当時の日本への侵略戦争である。一回目を文永の役、二回目は弘安の役と呼ばれる。

概要[編集]

当時世界最大の国土を誇っていたが属国の高麗 ()と共同で、鎌倉幕府の時代だった日本に攻め入った。

当初、元は高麗の長年の執拗な抵抗や服属後の済州島での三別抄の乱の平定に手を焼いたことを教訓に、日本と穏便な朝貢関係(つまり属国化)を締結するつもりで使者を送り、京都朝廷は穏健な解決を考えたが、武力抵抗を可能と見た鎌倉幕府の執権北条時宗は朝廷の意向に反して返事を拒絶し、使者を追い返したり、鎌倉で使者を処刑したりして、強硬姿勢を貫いたので、元の指導者フビライ・ハンは激怒[1]。元としては国書で伝えた通り、軍を送って攻め入る事にした[2]。元軍は約900隻の船と約3万人の兵力で侵攻[3]対馬壱岐を制圧した後、博多湾沿岸に上陸を開始した[4]

日本の武士は当初は一騎打ちを展開したが、元軍は集団戦法を用いて来たため苦戦した。また火薬兵器のてつはうを使ってくるなど、武士たちにとって想定外のものだった[5]。戦い方の違う元軍に手間取ったが、一度目は反撃が凄まじいために早々に引き上げ、二度目は台風によって敵の艦隊が全滅し、結果的には日本を敵の侵略から防衛する事に成功した格好になった。

他方、3度目の役も噂されて、北条氏が西国守護を増強し、予算超過によってこれが鎌倉幕府滅亡の遠因になった模様[6][注釈 1]

神風について[編集]

文永の役
神風は吹かなかったという説が有力らしく、ただの脅し、または偵察して帰っただけで、帰路の途中で沈んだという説がある[7]。しかし暴風雨が起きたとする資料もある[8]
弘安の役
こちらでは台風により艦隊が壊滅したという説が有力。弘安4年夏の頃、10万余騎の敵。

大相撲[編集]

モンゴル出身の大相撲力士が日本人力士を次々破り、優勝回数を重ねたり、高い地位に就いたり、土俵上で粗暴な振る舞いをすることを「元寇」と重ね合わすことがある[9]

軍歌[編集]

軍歌元寇」はこれをもとにして永井建子によって歌詞が作られ、1892年に発表された。東洋最強と言われた清国北洋水師の来日で「第二の元寇」と朝野が恐れていたときだった。日清戦争が起きたのはこの四年後であった。

詳細は「元寇 (軍歌)」を参照

元寇を題材としたテレビドラマ[編集]

  • 北条時宗 (NHK大河ドラマ) - 現在まで唯一の鎌倉時代中期を題材にした大河ドラマ。文永の役の非神風説は引用されたが、北条時宗の異母兄時輔が渡元してフビライと内通するなどのフィクションが描かれている。

当時の各国国王・皇帝[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

注釈
  1. フビライは実際に3度目の侵攻を企図したが、国内のカイドゥ等の反乱の収拾に手惑い、自身の老齢も相俟って、生前は実現しなかった。
出典
  1. 超ビジュアル!日本の歴史大百科 p122
  2. 元寇はなぜおきたか(文永の役)”. 玉川大学. 2019年2月1日確認。
  3. 超ビジュアル!日本の歴史大百科 p122
  4. 超ビジュアル!日本の歴史大百科 p122
  5. 超ビジュアル!日本の歴史大百科 p122-p123
  6. 弘安の役とその後”. 玉川大学. 2019年2月1日確認。
  7. モンゴル・朝鮮軍が日本で行った“殺戮””. SANKEI DIGITAL. 2019年2月1日確認。
  8. 超ビジュアル!日本の歴史大百科 p123
  9. https://mainichi.jp/articles/20190402/ddm/035/070/036000c

関連項目[編集]