伊達政宗毒殺計画

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伊達政宗毒殺計画
日付1590年4月5日
場所山形城
死者1[1]
負傷者0
原因伊達家を低迷させていた伊達政宗を殺害するため
結果失敗。政宗の弟・伊達小次郎が毒を飲み死亡。
犯人義姫および最上義光
備考あきる野市の大悲願寺に残る記録や、貞山公治家記録、伊達治家記録という記録に残っている記録がある為繊細な記録も意外と残っている。

伊達政宗毒殺計画とは、1590年4月5日に山形城で起こった伊達政宗に毒を盛って殺すという殺害計画である。

背景[編集]

本能寺の変後、清洲城にて織田家の当主を決める会議が行われた(清洲会議)。結果は2つに分かれた。柴田勝家は三男・織田信孝を当主として持ち上げたが、豊臣秀吉織田信長の長男の息子、三法師を持ち上げた。柴田はこの会議では優勢だった為、秀吉も何か優勢に抗議が出来る人物を欲しいと考えていた。秀吉が目をつけたのが織田信雄である。信雄と組んだ結果、秀吉勢力が勝利。これにより秀吉と勝家の関係は険悪化する。しかし信雄は安土城に上ったが、秀吉に騙され城から追放される。秀吉に奴隷の様に扱われていたと感じた信雄は徳川家康が手を組み、三方ヶ原の戦いが起こる。結果的に信雄は秀吉と和睦、家康も秀吉と和睦し、戦は終結。そして1585年に秀吉は関白に就任。天下統一まであと目前となった。 秀吉は後北条氏を倒し天下統一を成し遂げる為、有力な人物を呼び寄せようと考えた。さらに北条氏政も有力な人物を呼び寄せようと同じく考えた。そこで氏政と秀吉に来る様呼ばれたのが伊達政宗である。伊達政宗は氏政につくか秀吉につくか迷っていた。秀吉からは裏で激怒している様に伊達家全体を震撼させた。

結果[編集]

戦国大名・最上義光(政宗の伯父)と義姫が伊達家を混沌とさせ、危険に脅かす政宗を毒で殺す計画を模作した。その計画通りでいくと、弟である伊達小次郎が当主になると考えられていた。しかし毒殺は失敗、毒入りの飲料を飲んだ小次郎は死亡。[2]結果的に危機を感じた政宗は秀吉側につき、秀吉は後北条氏を倒し天下統一を成し遂げた。

脚注[編集]

  1. 死なずに生き残ったという説もある。
  2. 政宗自身が小次郎を殺したという説もある。