三浦環

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三浦 環(みうら たまき、明治17年(1884年2月22日 - 昭和21年(1946年5月26日)は、クラシックソプラノ歌手である。日本初の世界オペラ歌手

経歴[編集]

  • 1884年2月22日、東京府東京市芝に生まれる。出生名は「柴田 環」。
  • 1890年頃から長唄と箏を習う。
  • 東京女学館時代の音楽教師高木チカが上野の東京音楽大学の入学を勧める。
  • 1900年に東京音楽学校に入学。声楽をユンケル、幸田延に学ぶ。
  • 1904年東京音楽学校を卒業する。
  • 1911年帝国劇場のオペラでデビューする。
  • 1913年三浦政太郎と結婚し、「三浦 環」となる。
  • 1914年5月20日ドイツリリー・レーマンにつき、歌の勉をするためドイツ留学する[1]。しかし第1次世界大戦が開始されたため、8月6日ロンドンに移動する。大指揮者のサー・ヘンリー・ウッドのテストでは『リゴレット』を唄い、ウィンストン・チャーチルの母から日本が生んだ最初の立派な音楽家と評される。
  • 1914年10月24日、アルバート・ホールでの演奏会に出演し、成功を収める。ロンドンの新聞はメルバやカルベにひけをとらぬ美しい声と素晴らしい芸術の持主と好評であった。
  • 1915年5月31日、ロンドン・オペラハウスで日本を題材にした「蝶々夫人」を唄ったが、ドイツのツェッペリン飛行船のロンドン初空襲と重なる。「お蝶夫人」は評判となり、イギリス中の新聞に書かれた。ロンドン・タイムスは「ワンダフル・シンガー」と褒めた。以後、昭和10年の帰国までに欧米各地で2000回の出演を行う。
  • 1918年アメリカで2シーズンを過ごし、「蝶々夫人」とアンドレ・メサジェの「お菊さん」を演じる。
  • 1920年3月、三浦環はローマの国立コンスタンチ歌劇場で「蝶々夫人」に出演し、作曲者のプッチーニから自宅山荘に招待された。そこでは私が夢に描いていた理想の蝶々さんこそあなたです、と絶賛される。
  • 1935年11月、20年ぶりに帰国したが、伴奏者の男性と一緒だったため、夫のある身で不謹慎と非難される。夫は環に「歌をやめて家庭に帰れ」と親族会議を開く。
  • 1946年3月、大東学園病院に入院する。1946年4月25日、大東学園病院から東京帝国大学付属病院に転院する。5月26日、膀胱がんのため東大病院で死去。63歳没。墓地は山中湖湖畔の寿徳寺。

参考文献・注釈[編集]

  1. 三浦環(1997)『三浦環―お蝶夫人』日本図書センター、ISBN-13: 978-4820542681