プロレタリア文学

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プロレタリア文学(プロレタリアぶんがく)とは、20世紀前半に労働者・農民の立場にたって書かれた文学作品と、それを担った運動組織の総称である。国際的には革命文学という名称も用いられたが、日本では戦前の治安警察法治安維持法のもとで「革命」のことばが公然と使用できなかった[1]ので、もっぱら無産者階級をしめす「プロレタリア」のことばが用いられた。

1911年の大逆事件のあと、社会革新をめざす運動は「冬の時代」と呼ばれる、運動が表面化しない時期を迎えた。それでも、荒畑寒村堺利彦たちは、文章を発表することで運動の灯火を守った。

1920年代になると、労働運動もひろがりを見せる。また、高畠素之が『資本論』の翻訳を刊行するなど社会科学への関心も広まった。この時期、小牧近江金子洋文などを中心にして雑誌『種蒔く人』が創刊された。フランスのクラルテ運動にも影響を受けたこの動きは、ヒューマニズムの要素をあわせもった労働者階級の文学を指向した。

1923年9月の関東大震災のときに、社会主義者がどさくさにまぎれて虐殺された亀戸事件が起きた。このとき、種蒔く人の関係者も平沢計七など犠牲になった者もいたので、種蒔く人同人は、小冊子『種蒔き雑記』を刊行して犠牲者を追悼した。その後、弾圧が厳しくなったので種蒔く人はこの雑記をもって終刊した。

1924年、再びプロレタリア文学の雑誌をつくろうという機運が起こり、あらたに山田清三郎青野季吉らを含めて雑誌『文芸戦線』が創刊された。『文芸戦線』には葉山嘉樹黒島伝治など、新しい書き手も加わり、プロレタリア文学の中心となった。

そうした動きは、『文芸戦線』を中心にした運動組織としてプロレタリア文学の書き手たちを再編しようという動きになり、1925年には日本プロレタリア文芸聯盟(プロ聯)が発足する。プロ聯は翌1926年には日本プロレタリア芸術聯盟(プロ芸)と改称し、広く文化運動全体へと眼を向ける方向性をしめした。

その過程で、1927年に激動が起きる。アナキストの傾向に近かった壺井繁治江口渙たちは、日本無産派文芸聯盟を作る。また、文学と政治の関係を重視する中野重治鹿地亘らがプロ芸の主流を占めたので、青野季吉や蔵原惟人たちは、雑誌『文芸戦線』ごと独立、労農芸術家聯盟(労芸)を設立する。ところが、その労芸も、山川均がみずからがコミンテルンから批判されたことへの反駁文を『文芸戦線』に寄稿したことから対立が生じ、蔵原惟人や村山知義たちはあらたに前衛芸術家同盟(前芸)を結成し、文学団体乱立の状態で年を越すことになった。

脚注[編集]

  1. 『座談会 昭和文学史』(集英社)での小田切秀雄の発言