キューバ危機

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キューバ危機(キューバきき)とは、1962年アメリカ合衆国ソ連の間で核戦争の瀬戸際にまで陥った事件のことである。

概要[編集]

1959年1月キューバ革命によりキューバはフィデル・カストロによる社会主義国となった。アメリカはこれに対し、1961年1月にキューバとの断交を宣言する。

当時は米ソ冷戦の時代であり、キューバと同じ社会主義国だったソ連は、米国からキューバを支援するために中距離核ミサイルをキューバに搬入しようとした。これが1962年10月16日にアメリカに発覚。当時のアメリカ大統領だったジョン・F・ケネディ10月22日になって事態を公表し、ソ連に対してキューバにおけるミサイル基地の撤去を求めると共に、キューバを海上封鎖した。さらにケネディは、キューバからのミサイル攻撃はソ連からの攻撃と見なして報復するとまで宣言し、米ソによる核戦争の緊張が高まった。

当時のソ連指導者であるニキータ・フルシチョフ国連安全保障理事会での協議を行う。10月27日にキューバ上空でアメリカの偵察機が撃墜される事件も起きたが、10月28日にフルシチョフはアメリカがキューバに侵攻しないことなどを条件にして基地撤去を通告する。ケネディはフルシチョフの体面を考えて、当時トルコに配備してソ連を射程に収めていたアメリカのミサイルの撤収を提案し、こうして米ソ核戦争の危機は終息した。

その後、米ソは偶発的な軍事衝突を避けるため、1963年8月ホットラインを設置し、部分的核実験禁止条約PTBT)に調印した。1968年には核拡散防止条約NPT)に署名した。

この事件は、その後の世界における核戦争回避の教訓となった。

外部リンク[編集]

日本語サイト[編集]

英語サイト[編集]