エウプラクシア

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エウプラクシア(Eupraxia、 1070年1109年)あるいはアデルハイドは、キエフ公国の公女。聖ウラジーミルのひ孫にあたる。美少女として知られ、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の妃となった。その後、神聖ローマ帝国とキエフ公国が対立するようになると、エウプラクシアは監禁されて大勢の男に辱められて妊娠した。

生涯[編集]

公女として[編集]

キエフ公のフセヴォロド1世の娘として生まれた。1088年、18歳のとき、エウプラクシアは神聖ローマ帝国へと送られた。これは実質的な人質であったと考えられる。皇帝ハインリヒ4世は、エウプラクシアの可憐な容姿に胸を打たれた。折しもハインリヒ4世の先妻は亡くなっていたため、エウプラクシアは皇帝の妃となることとなった。そして、ドイツ風の名前であるアデルハイドに改名した。

凌辱[編集]

しかし、1092年、ハインリヒ4世がイタリア遠征に赴くと、エウプラクシアも連行され、彼女はヴェローナ周辺の砦に投獄された。これはキエフ公国と神聖ローマ帝国が対立するようになったためであると考えられる。

監禁されたエウプラクシアを待っていたのは、見せしめとしての凌辱だった。ハインリヒは、嫌がる彼女を貴族たちの乱交パーティに無理やり参加させた。22歳のエウプラクシアは、貴族の男たちに次々と強姦されることとなった。また、黒ミサの一環としてエウプラクシアを輪姦する会がたびたび開催されたという。

このような形で大勢の男から1年近く犯され続けたエウプラクシアは、1093年、誰が父親かわからない子を孕むこととなった。妊娠した彼女はこれ以上の凌辱に耐えることができず、獄中から逃亡してトスカーナ女伯のマティルデ・ディ・カノッサのもとへ逃れ、その後、故国へ帰ったという。

脚注[編集]