日本革命的共産主義者同盟全国分派

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日本革命的共産主義者同盟全国分派は、革共同系の新左翼党派。通称は青年インター派

概要[編集]

1961年9月に大原孝一(星宮煥生)、牛丸征彦らが第四インター日本支部から分裂して革共同全国分派を結成した。1961年11月に結成された国際主義共産青年同盟学生準備会を掌握したため、「青年インター派」とも呼ばれる。また西岡谷派に対して「大原派」とも呼ばれる。事務所は社会経済研究所。機関紙は『世界革命』[1]。加入戦術を採用した第四インター日本支部に対し、青年インター派は加入戦術を「社民労働官僚にたいする夢想にすぎない」と批判した[2]

『日本革命的共産主義者同盟小史』によると、1961年の第四インター日本支部第2回全国大会は、社会党社青同への加入戦術の検討に着手することとともに、青年インター(国際主義共産青年同盟)準備会の発足を決定した。大会後に中央書記局の鎌倉らは山西英一らの示唆を受け、社会党への全面的加入戦術の採用、青年インターの解散を提案した。すでに青年インターの組織化に取り組んでいた関東のメンバーは鎌倉提案に強い不満を持った。関西のメンバーは鎌倉提案に反対、部分加入には賛成の立場をとり、関西ビューローは部分的加入戦術の採用を提案した。関西の青年インターメンバーは、大原を中心とする関西の青年インター指導部が現場の困難を理解せず官僚化しているとして不信と反発を強めていた。このような混乱の中で大原は、関西ビューローは鎌倉を中心とする全面加入派と野合したとの批判を展開した。関東の青年インターメンバーは、関西ビューローと結合して鎌倉提案に対抗しようとしていたが、中央指導部の岡谷進らは「彼らの実践的な困難を理解せず、方針上問題はあるけれども指導部としては鎌倉を信頼するとして、彼らの直訴を斥ぞけた」[3]。結局、大原と関東の青年インターメンバーが結合して「革命的分派」(青年インター派とも)を結成した。「革命的分派」は1961年末の6中委で第四インターから分裂した。続いて「革命的理論建設派」が第四インターから分裂し、第四インターの中央機関に打撃を与えた[3]

青年労働者・学生組織の国際主義共産青年同盟(青年インター)は、60年安保闘争後に結成された社学同・社青同解放派構改派の三派連合に加わり、四派連合を結成したが、1962年に離脱した。1966年に社学同・社青同解放派・中核派が三派全学連を結成するとこれに加盟した。国際学生連盟(IUS)をめぐり、社学同・ML派とともに「中国キューバの参加しないIUSには意味が無い」と脱退を主張して、中核派と衝突したこともあった。1967年の10・8羽田闘争を契機に武装闘争路線に転換し、1969年の10.21闘争には20名ほどが参加した[1]

全国分派は1964年10月に東京グループと関西グループに分裂した。大原は運動から離れ、牛丸が全国分派の活動を続けた。1966年7月に全国分派のメンバーだった霧山完一(高橋彬)が「第4インターナショナル(革命的共産主義者同盟)」を結成し、同年10月に「第四インターナショナル中央書記局」に改称した[1]。一部の全国分派のメンバーは中核派に合流した[2]

出典[編集]

  1. a b c 社会問題研究会編『増補改訂'70年版 全学連各派―学生運動事典―』双葉社、1969年、164、171-173頁
  2. a b 松村良一「日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)」戦後革命運動事典編集委員会編『戦後革命運動事典』新泉社、1985年、213頁
  3. a b 第四章 労働者の中へ ― 加入活動の時代 ― 日本革命的共産主義者同盟小史

参考文献[編集]

  • 社会問題研究会編『全学連各派――学生運動事典』双葉社、1969年、121-123頁
  • 松村良一「第四インターナショナル国際主義青年同盟」戦後革命運動事典編集委員会編『戦後革命運動事典』新泉社、1985年、173頁