審 食其(しん いき、? - 紀元前177年)は、前漢の政治家。
沛の出身[1]。最初は劉邦に仕え、劉邦が項羽に彭城で敗れて父親と妻の呂后が人質になった際、呂后の身辺の世話を務めたため、以後は呂后から絶大な信任を得ることになる[1]。劉邦から功臣として僻陽公に封じられた[1]。劉邦の没後、呂后の時代になると左丞相に任命され、役人らは何事も審食其の決裁を仰ぐことが必要とされたという[1]。
呂后が死去し、その後に呂氏一族が族滅されると、審食其は助命こそされたが左丞相は罷免された[1]。紀元前177年に淮南王・劉長によって殺害された[1]。
- ↑ a b c d e f 青木五郎、中村嘉広 編『史記の事典』大修館書店、2002年、p.514
参考文献[編集]