吾彦
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吾 彦(ご げん、生没年不詳)は、中国の三国時代の呉・西晋・東晋の政治家・武将。字は士則(しそく)[1][2]。
生涯[編集]
揚州呉郡呉県の出身[1]。出自は貧しかったが文武に優れ、身長は8尺(約184センチ)で素手で猛獣を組み伏せる怪力があったという[1]。呉の第4代皇帝・孫皓に仕えて通江使に任命される[1]。272年に歩闡が西晋に通じて反乱を起こすと、陸抗や左奕、蔡貢と共に西陵に向かって鎮圧した[1]。西晋が呉に侵攻した279年の時には建平郡太守だったが長江に鉄鎖を張るなどして最後まで抵抗し[2]、主君の孫皓が降伏すると自らも降伏した[1]。
西晋の時代には金城郡太守、敦煌郡太守、交州刺史、南中都督などを歴任し、大長秋にまで昇進する[1][2]。東晋の時代まで生き、長寿を全うした。
『三国志演義』では最終回で登場し、ほぼ史実通りである[1]。