利用者:稲垣啓二/sandbox

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本川一美(ほんかわ かずみ、1972年1月12日 - )は、日本の元陸上競技選手。

大学1年時から2区を走り、特に1992年では4年連続区間賞を目指したオツオリを止めた天才ランナーと言われた。

経歴[編集]

高校時代[編集]

高森町立高森中学校から熊本県立熊本工業高等学校に進む[1]。熊本工業では3年まで出場機会に恵まれなかったが、1989年の高校駅伝予選にて県大会では1区を走って区間1位、九州大会でも区間4位で南九州地区代表として第40回高校駅伝に出場した[2][3]

全国高校駅伝では同じ1区を走ったが区間52位の大ブレーキとなってしまった[4]。2区以降の選手が追い上げもののブレーキが響いてしまったのか17位に終わった[4]

オツオリとの区間賞争い[編集]

高校卒業後は順天堂大学に進学。1年生で第2回出雲駅伝の1区に起用され、17分39秒の区間7位で全体9位に貢献した。同年の箱根駅伝では各校のエースが鎬を削る「花の2区」で箱根デビュー。区間6位の1時間10分43秒でチームは総合6位でシード権を獲得した。

翌年の出雲駅伝では2区に起用され区間賞。箱根駅伝では前年と同じく2区に起用された。9位で襷を受け取ると、わずか5kmで6人抜きの3位に浮上する。一方未だ達成されていない2区4年連続区間賞に向けて山梨学院大学オツオリも快調な走りを見せていた。本川は1983年の第59回大会で大塚正美が記録した1時間7分34秒を大幅に上回るペースで猛追する。

オツオリは先頭を走る早稲田大学櫛部静二の背中を追いかけるべく走っていたが、11km付近で本川がオツオリを射程圏内に捉えると「オツオリを抜かせるのは俺だけだ」と言わんばかりにそのままオツオリのペースを確認する事なく突き放した。オツオリもまさか追い付かれるとは思っていなかったのか、本川が背後に付けていたのを驚くように振り返って確認した。流石のオツオリも本川の予想外のペースに追いつけず、差はみるみる離れていった。

そして、12.4kmで櫛部を捉えて独走状態に突入する。前半は区間新記録は濃厚であったが、後半にペースを落として区間新はならなかった。順天堂大学は3区でケネディ・イセナに区間新記録の快走でトップを奪われ往路を山梨学院大学に譲ったが、復路優勝で総合3位。しかし、当時「学生界最強ランナー」と言われたオツオリを驚異的な速さで抜き去ったシーンは日本中が驚いた。後に3年連続区間賞と2区区間新記録であり、当時神の領域と言われた1時間7分台を切る1時間6分48秒を記録した渡辺康幸も衝撃的であったと述べている[5]

まさかの大ブレーキ、そして復活[編集]

翌年も区間賞と区間新記録が期待された。しかし、戦前から足の状態が思わしくないとされていたが強行出場した。トップから2分48秒差の12位で襷を受け取ったが、序盤から全くペースが上がらず進み続けた。前半から1km3分台後半のスローペースであり終盤に至っては1kmに4分を要する大ブレーキとなり最下位に転落した。

出典[編集]

  1. 広報たかもり 1996年3月”. 2024年6月17日確認。
  2. 熊本工業高校駅伝部 高校駅伝大会記録一覧”. 2024年6月17日確認。
  3. 第40回男子 予選会記録”. 2024年6月17日確認。
  4. a b 1989(平成元)年第40回男子大会記録”. 2024年6月17日確認。
  5. 箱根駅伝の名ランナー・渡辺康幸が名場面をセレクト&100回大会を占う”. 2024年10月17日確認。