藤原隆義

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藤原 隆義(ふじわら たかよし、1941年4月10日[1] - 1977年4月15日)は、新左翼活動家。日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)政治組織局員[1]。筆名は杜学(もりまなぶ)[2]

経歴・人物[編集]

京城ソウル)生まれ。少年時代を島根の山村、中高生時代を福岡で過ごす。高校入学後、上級生の暴力で運動部を辞めたことがきっかけで宗教に興味を持ち、キリスト教の勉強をしたという。1962年に浪人して早稲田大学第一文学部西洋哲学科に入学。米ソ核実験反対運動の中、全学連に参加。1963年マルクス主義学生同盟に加盟。1964年に革共同同盟員となり、原潜闘争・日韓闘争・第一次早大闘争などに参加。1966年革共同早大総細胞キャップ、中央学生組織委員。1970年労働戦線担当常任。1972年政治組織局員[1]。1977年に革労協との内ゲバ事件で死亡した。享年36歳。死後、全3巻の著作集が刊行された。

浦和市車両放火内ゲバ殺人事件[編集]

1977年4月15日午後9時過ぎ、埼玉県戸田市の革マル派の印刷工場から藤原ら同派構成員4人が乗った自動車が発進した。この自動車は敵対党派の内ゲバから身を守るために、金網や鉄板を取り付けて改造するなどの特殊仕様の車両であった。浦和市内を走行中、トラックが前方に飛び出し、後ろからもトラックが追突、2台のトラックに挟まれて停止した。そして、そのトラックから降りて来た約10人の犯人が自動車を取り囲み、ドアを乱打して開かないようにした。そして窓ガラスを割り、その中にガソリンを流し込み発煙筒を投げ込んで炎上させ、車内にいた4人全員を焼殺した。その後、革労協が機関紙『解放』で犯行を自認し[3]中原一書記長殺害に対する復讐であることを明らかにした[4]

その他[編集]

歌人の福島泰樹は早大西洋哲学科の同級生。福島によると、1962年に藤原がクラス委員に選出されたが、1964年に福島らクラスは自治会の常任委員であった藤原らをクラスから追放したという[2]。藤原の死後、福島は「柘榴盃の歌」という短歌を作って亡き藤原に献じた[2][5]

著書[編集]

  • 『わが革命をめざして 藤原隆義=杜学論集 第2巻 現代日本労働運動論 上巻』 日本革命的共産主義者同盟政治組織局編、解放社、こぶし書房(発売)、1978年
  • 『わが革命をめざして 藤原隆義=杜学論集 第3巻 現代日本労働運動論 下巻』 日本革命的共産主義者同盟政治組織局編、解放社、こぶし書房(発売)、1978年
  • 『わが革命をめざして 藤原隆義=杜学論集 第1巻 革命的左翼の思想』 日本革命的共産主義者同盟政治組織局編、解放社、こぶし書房(発売)、1979年

脚注[編集]

  1. a b c 『革命的左翼の思想』1-2頁、467-469頁
  2. a b c 福島泰樹『追憶の風景』晶文社、2016年、53-55頁
  3. 警備研究会『わかりやすい極左・右翼・日本共産党用語集〔四訂〕』立花書房、2012年、133頁、“革マル派政治局員藤原隆義ら4人内ゲバ殺人事件”
  4. 1977.4.15復讐の革命的テロル炸裂 革マル「政治組織局員」藤原ら4名を完全に打倒! 全日本学生自治会総連合(伍代委員長)
  5. 我カク戦ヘリ/二十一世紀への冀望 ――高野孟に聞く(構成・福島泰樹) 高野孟の極私的情報曼荼羅&あーかいぶ

外部リンク[編集]