北条宗宣

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北条 宗宣(ほうじょう むねのぶ、正元元年(1259年) - 正和元年6月12日1312年7月16日))は、鎌倉時代後期の北条氏の一門。大仏 宗宣(おさらぎ むねのぶ)とも称される。鎌倉幕府の第10代連署にして、第11代執権(執権在職:応長元年10月3日1311年11月13日) - 正和元年5月29日1312年7月4日))。

生涯[編集]

父は北条宣時。母は北条時広の娘(時広は北条時房の孫で宣時の従兄に当たる)。

元服の時期は定かではないが、弘安5年(1282年)2月より以前に元服していたのは確かである。名の宗宣の「宗」は第8代執権・北条時宗からの偏諱であり、時宗は同時に烏帽子親であったといわれている。

父の宣時は連署に就任するなど鎌倉幕府の重鎮として活躍していたので、そのため弘安9年(1286年)6月に28歳の若さで引付衆に任命される。弘安10年(1287年)10月には評定衆に任命された。永仁元年(1293年)5月には越訴頭人、7月には小侍奉行、10月に執奏、永仁4年(1296年)1月に4番引付頭人、10月に寄合衆、京下奉行と要職を歴任している。永仁5年(1297年)7月には六波羅探題南方に任命された。以後、乾元元年(1302年)1月までの5年近くにわたって六波羅探題南方を務めた。

六波羅探題南方を辞職後は鎌倉に戻り、その翌月の2月には1番引付頭人に任命されている。8月には官途奉行に就任し、嘉元元年(1303年)8月には越訴頭人に再度就任している。嘉元3年(1305年)4月の嘉元の乱には深く関与しており、北条貞時の命令を受けて北条宗方を追討している。この嘉元の乱で連署の北条時村が宗方に殺害されていたため、乱から3ヵ月後の7月に宗宣が後任の連署に就任している。

応長元年(1311年)9月に第10代執権の北条師時が死去したため、10月3日にその後任として宗宣が第11代執権に就任する。そして10月26日には第9代執権の北条貞時も死去し、宗宣は単独で唯一の執権に就任した。だが、就任時点で53歳と当時としては老齢の上、貞時から後事を託されていた幕臣・長崎円喜に幕政の実権は握られて指導力を発揮できず、しかも執権就任から1年と満たない正和元年(1312年)5月29日に病気を理由に執権職を連署の北条煕時に譲り、同日に出家して順昭と号した。そして6月12日に54歳で没した。

鎌倉時代後期を代表する歌人として知られており、『新後撰和歌集』『玉葉和歌集』『続千載和歌集』などに宗宣の詠歌が収められている。