被差別部落

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被差別部落 (ひさべつぶらく)とは、江戸時代穢多非人隠亡藤内 (前田家の寺院内で清掃火葬に従事した。)といった賤民階級が居住を指定された区域である。明治維新後に平民となったにも関わらず差別を受け続けている人々の居住している地域のことである。

名称[編集]

部落」という言葉は被差別部落の存在しない地区では単なる集落を意味する。これに対して被差別部落の存在するところは「特殊部落」、後に「未解放部落」と呼ばれるようになった。この「被差別部落」という言葉は部落解放運動の理論的指導者である京都大学歴史学者井上清造語である。

概要[編集]

日本国憲法第14条では、全ての国民が平等と定めている。[1]しかし、この問題は決して終わってはいない。日本全国に存在するが、近畿地方以西に多く[2]北海道東北地方沖縄県には少ないと言われているが、実際は被差別部落であることを差別を恐れて隠す事例が非常に多く、相当数があるものと思われる。[2]かつては貧困問題や進学、就職、結婚で差別されていたが、現在も地域によってはそれが続いている。被差別部落の人物は出生地主義か、血統主義かで意見が分かれる。また、一度でも被差別部落に居住したら被差別部落の出身者であるかという点についても意見が分かれる。大学に通うためにアパートに入居したらそこが被差別部落だったという事例が非常に多く、本人もそれを気づかないことが多い。

歴史[編集]

前史[編集]

被差別部落の前身に当たる賤民階級が日本にいつ発生したのかはまだよくわかっておらず、論争となっているが、奈良時代奴卑にまで遡るかは議論がある。平安時代には既に荘園で存在していた可能性がある。これは、「」を穢れとし、斃死した牛馬の処理や処刑場での刑死した罪人の遺体の後始末を行わせる目的があった。徳川幕府が定めたという近世起源説、異民族説は否定されている。また時代の移り変わりに自然消滅し、再び発生するなど流動的なものであった。居住地は皮革産業に必要な水を大量に得られる河川周辺が多く、これによって水害伝染病の蔓延など、衛生面での問題が生じた。また、後世の河川改修によって立ち退きを強制され、被差別部落の消滅となる遠因ともなった。戦国時代になると下克上の世の中となり、治安も極度に悪化して賤民階級も武装化し、中には武士となる者もいる一方、賤民階級に身を堕とす者もいた。江戸時代になると身分が固定され、居住地が厳しく制限された反面、皮革産業などを独占し、それなりの財産を蓄える者が出てきた。農業に携わる者は一般の農民と同様、年貢を収めていた。このため、江戸時代後期に中国地方で穢多に厳しい服務規程を押しつけようとすると、「一般の農民と同じように年貢を収めているのに不公平だ」と攻撃され、撤回せざるを得なかった。封建時代賤民階級行政を動かした希有な例である。

明治時代[編集]

明治政府は近代国家への移行のために1871年8月28日に賤民解放令を発布し、賤民階級は平民になったが、「新平民」と言われ、解放令反対一揆が起きて岡山県では多数の死者を出すなど差別はなくならなかった。[3]政府は近代交通を全国に張り巡らすために道路鉄道を新設したが、地価の安い被差別部落を通すことが多かった。今でも鉄道路線鉄道駅の周辺に被差別部落がある例は多い。これによって、飲食店流通旅館といった業種に参入し、経済的な成功を収めた者がいる。一方、それまで独占していた屠畜業皮革産業も独占が廃され、処刑場の管理も法務省に移管したため、経済的にも困窮した者も多い。このため子女の就学率も低く、識字率も低く、衛生状況も劣悪だった。これに対して政府は被差別部落への教育によってこれを解決しようとした。

大正時代[編集]

1918年に起きた米騒動では京都市東七条で被差別部落の出身者が口火を切り、多数参加して暴動と化したため政府は対策を考えるようになった。一方、被差別部落側からは差別撤廃を求めて1922年3月3日京都で日本全国から西日本を中心に3000人が参加して全国水平社が組織された。日本がヴェルサイユ会議に「人種的差別待遇撤廃案」を提出したことは反差別という行為の正当化を被差別部落の人々に植え付けたことも需要である。1871年の明治天皇が発布した賤民解放令に反する差別的言動は明治天皇に反する国賊行為として差別を行った個人や法人に対する糾弾を行うことを全国水平社結成で決議し、その対象は大日本帝国陸軍も例外ではなかった。

昭和戦前[編集]

摂政宮裕仁大正天皇崩御による昭和天皇即位による勅語から「同和」という官製用語が作られた。以後、行政による被差別部落に関する用語に用いられるようになる。1931年に発生した満州事変による満州国の成立によりここへ移民すれば地主になれるし差別もなくなるとの甘言によって多くの被差別部落から満州へ移民し、後にソビエト連邦の参戦、太平洋戦争の敗北によって移民は悲惨な状況に置かれた。一方、全国水平社は1942年1月20日に前年12月に公布された言論出版集会結社等臨時取締法の元で自然消滅した。日本本土空襲への備えとして道路の拡張によって防火帯とするために、道路幅の狭い多くの被差別部落は建物疎開によって強制的に移転させられ、さらに日本本土空襲によって徹底的に破壊させられた。

昭和戦後[編集]

太平洋戦争後に全国水平社の後身である部落解放同盟が結成された。同和教育も始まったが、却って差別を助長するのではないか、いわゆる、「寝た子を起こすな」という可能性が指摘された。また、日本共産党が「糾弾は暴力」という立場をとったために決別、以降、部落解放同盟と日本共産党とは対立関係にある。1969年に公布された同和対策事業特別措置法によって被差別部落の環境改善が始まった。しかし、被差別部落であることが特定されるとして指定を断る地区もあった。そのようなところは道路拡張工事を含む都市開発によって土地が買収され、住居移転などによって結局居住環境の改善が図られることもあった。1970年代から1980年代にかけては部落解放同盟のマスメディアに対する差別表現糾弾闘争の全盛期だった。これによってマスメディアが被差別部落に関する出来事を報道しなくなる荊タブーが発生した。さらに、被差別部落を題材にした楽曲も放送しなくなった。

現状[編集]

西日本では数多くの地方自治体の都市部に被差別部落が存在し、今でも差別が根強く残っている一方、全国的に山間部や農村ではダム建設、からガスへの変化といった産業構造の変化によって過疎化が進み、被差別部落の住民は都市へ流れ解体した地区も多い。また、都市においても、都市開発河川改修によって消滅した被差別部落もある。日本全国には約300万人が被差別部落とその関係者がいる。なかには地方自治体の人口の20人に1人が被差別部落とその関係者となっているところがある。また結婚によって新たに被差別部落の関係者となったりする。被差別部落への住居移転によって被差別部落の関係者となるほか、未認定の被差別部落も存在するので、日本国内には公表されているより相当多くの被差別部落の関係者がいることになる。また、進学、就職、結婚、あるいは経済的向上によって被差別部落を出ていく人がいる反面、土地価格、家賃の安さで流入する人もいて、都市の被差別部落は消滅する気配はない。このほか、同和教育についても「知らなくても済んだことを知ってしまった」ということがあり、様々な問題が出てきている。差別問題も小さくなり、様々な差別問題を考える人権教育と名を変えるところがある。

墓石の問題もある。これに彫られた戒名にあからさまに被差別部落出身者とわかるようになっているものがあり、「気づかれぬように処分すべきだ」という意見と、「宗教でさえこのように差別してきたという事実を後世に伝えるべきだ」という意見がある。

被差別部落の一覧[編集]

かつては書籍に被差別部落の存在する地方自治体の地区まで紹介していたものもあったが、人権侵害の可能性が指摘されているため[4][5]、あえて記載しない。都市部の被差別部落は高級住宅地や自衛隊施設、大学に転用され、被差別部落の面影が消えたところもある。

被差別部落出身の著名人[編集]

被差別部落出身者であることを公表している人物のみ記載可能。

文化[編集]

屠畜業を営む関係からさいぼし油かすといった食品が考案された。また被差別部落を題材にした楽曲が誕生した。

関連項目[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]


出典[編集]

参考文献[編集]